2010年12月26日日曜日

わたしの飯能市石仏地図




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上名栗人見

板碑

双体で道祖神風の馬頭(元禄7)があるのでは、と期待してい
たが、浅見家の当主にうかがったところそのようなものはない
とのこと。
かわりに墓地内に2基の板碑が覆屋内にあることを教わる。
おなじものが隣家にわかれて祀られているということで、そち
らも写真に撮らせていただく。



上名栗浜居場

馬頭観音(寛政10年(1795)


上名栗浜居場

地蔵菩薩

2010年12月25日土曜日

上名栗人見向

馬頭観音(天保14年1843))

人見地蔵の手前(左の旧道を進むとまもなく祠がある)にあり、
文字塔の馬頭観音もとなりに据えられている。

上名栗人見向

地蔵菩薩(安永3年(1774))

中央のいちばん大きいのが「人見地蔵」として信仰されている
地蔵菩薩。
















地蔵菩薩(元禄10年(1697)
























庚申塔(元禄14年(1702))

2010年4月21日水曜日

上名栗鳥居 金毘羅神社

焼失跡
平成12年の火事で焼失し、新しく建てら
れた小さな祠と奥の院の標識が建って
いるのみ。今も黒く焼けただれたままの
杉の木がいたいたしい。

2010年2月25日木曜日

上名栗穴沢

日恵権現(昭和11)

日恵権現は「名主を継いでいた古屋敷の先祖で行者」だった
ひとをまつったもの。地蔵菩薩も昭和年代の造立。

上名栗穴沢

阿弥陀如来

足元には馬頭観音や聖観音など4躰の舟形石仏がまとめら
れている。石仏群は天目指峠へとつうじる道の上側にあり、
その下には入間川へと流れ込む川が岸を削っている。
 いずれも明治43年の水害で流れついたものを集めたものだ
という。

上名栗柏木(切通し) 柏林寺

地蔵菩薩(元文3(1738))

寺は街道から切り通しを登ったところにある。石仏は手前の切
り通しの途中と頂上にまつられている。
















弁才天と供養塔

上名栗櫃沢(山王橋きわ)

庚申塔

青面金剛像は猿とみまちがえるんほどかわいらしく小さい。
3猿ではなく2猿だけがほられている。脇侍をしたがえた弥
陀三尊像と見まちがえそうな像だ。造立年代は不明だが、
3猿形式にうつるまえの原初にちかいかたちだろうか。
川にかかる橋は山王橋とよばれるが、かつて山王様・日枝
神社があった。そしてその使いとされる猿が庚申塔にきざま
れることになったのだろうか。庚申信仰とはべつに日枝神社
ゆかりの猿が庚申塔に置かれるようになったいきさつをかた
る重要な塔なのかも・・・

飯能・入間市内にある庚申塔のなかで、2猿なのはわたしの
みるところこの1基だけ。
また主尊はその姿かたちのおだやかさから判断すると地蔵
菩薩にも見えないこともない。


三界万霊塔(等)と廻国塔(元文6(1740))

庚申塔からわずかに下ったところに祀られている。

上名栗森ヶ原 浅見氏宅

木造阿弥陀如来・十一面観音・薬師如来

ひつ沢の庚申塔をたずねて農作業中の方に声をおかけしたとこ
ろ、「うちにも十一面観音があるよ」とおしえられ、石仏ではな
いがせっかくなのでありがたく祠の鍵をあけていただく。十一
面観音立像は江戸前期、阿弥陀如来坐像は江戸中期のもの
としてそれぞれ市の文化財に指定されている。
浅見氏のおなじ墓地内に元文2年と銘の
ある石仏がある。左手に蓮華をもってい
るようにもみえ、それがあたっているなら
聖観音か?



上名栗森ケ原 医王寺

地蔵菩薩(寛保3(1743))

上名栗秋津 圓正寺

地蔵菩薩(弘化2(1845))
右は法華供養塔(弘化4)。
ほかに文字塔の念仏供養塔(延享4)と庚申塔もある。

上名栗中指

地蔵菩薩(天明8(1787))
地名に指(さし)がついていることから、このあたりはかつては入間川の河岸段丘を焼畑として営んでいたとおもわれる。

上名栗鳥居

法華千部塔
右:弘化4(1847) 左:文化2(1805)
















弘化4年の法華千部塔アップ

上名栗原

不動明王

上名栗鍛治屋橋峠入口

馬頭観音(安永6(1777))

上名栗平

地蔵菩薩
左は水子地蔵。写真には出ていないが、右端には文字塔の馬頭観音もまつられている。

2010年2月23日火曜日

上名栗宮の平

地蔵菩薩

上名栗八幡

馬頭観音(弘化3(1846))

上名栗小出 大野氏宅

地蔵菩薩2躰(左端:寛政4(1792))と馬頭観音

名栗川を見下ろす木立に、川を背にして立っている。

上名栗竹ノ内

地蔵菩薩(安永5(1776))

上名栗稲村

六面幢
道路から小高い平地には、木造の薬師如来と十二神将が祠にまつられ、湧水らしい泉もある。六地蔵はその手前の方にまつられている。ささやかな小宇宙といった趣。

2010年1月26日火曜日

下名栗尾須沢

尾須沢鍾乳洞

これほど大規模の鍾乳洞があれば、岩をご神体とする神社や
修験の聖地やお寺ができていてもよさそうだが、今のところそ
の形跡はなさそう。『名栗の民俗』によると、コウモリ岩と呼ば
れる尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すと、坂石町(吾野)の法光
寺の洞穴から出てきたという伝説が伝わっている。法光寺に
は弘法大師が彫ったといわれる磨崖仏もあり、頂上にはご神
体の石がまつられ、中腹には貞治3(1348)年に建立された観
音石窟もある。同様のものがこちらにもあってもよさそうだが、
聖観音だけがさびしく土に埋もれていたということになる。そし
てこのブログが参考にさせていただいている『名栗の石仏』編
者の塩野さんが昭和50年(1975)にこの聖観音を発見し、掘り
出したのだ。そのことがなかったら、いまこのように聖観音を
拝むことはできなかった。埋もれていることを推測し掘り出さ
れた塩野氏の推理力と執念に感謝かつ敬服。















鍾乳洞わきにたたずむ聖観音(寛文12 (1672))















聖観音アップ

土中から掘り出された観音は名栗最古にもかかわらず、とて
も新しくつい最近彫られたかのようにみずみずしい。願いごと
を聞きとどける「与願印」の右手が大きいのは、その大きな掌
でより多くの衆生を救うためだろう。






















聖観音全身像

下名栗落合 大ヨケの滝

大ヨケの滝

















不動明王(天保4(1833))

下名栗河又 龍泉寺

地蔵菩薩と巡拝塔(天明9(1787))

中央の地蔵菩薩はなで肩で、ユニークなすがたをしている
(享保8(1723))。
巡拝塔には、「秩父 坂東 西國 大峯山 湯殿山 四國八
十八ケ所 金比羅山」と全国の修験の聖地と札所名がきざ
まれている。
















六地蔵菩薩(安永8(1779))と地蔵菩薩(左端)

下名栗和田

地蔵菩薩(寛保3 (1743))
このブログが参考にさせていただいた『名栗の石仏』
の編集責任者・塩野氏宅てまえにまつられている。
母堂のはなしによると同氏はこどものころから石仏に
興味をもたれていたとのこと。そうでなくては埋没して
いた尾須沢の聖観音像を発掘することはできなかった
だろう。

2010年1月21日木曜日

下名栗馬場

巡拝塔(安政4(1857))・勢至菩薩(慶應2(1866))・馬頭観音(安政4)
阿弥陀三尊の脇士としてあらわされることの多い勢至菩薩が単独で祀られている。
この勢至菩薩が造立された慶應2年といえば、翌3年には大政奉還から王政復古へと激動の時代に突き進んでいく。戦争への予兆を感じ、迷いと戦さからすくってくれるこの菩薩を造立したのだろうか。














巡拝塔アップ
彫像は右手に錫杖はもっていないが、左手にもっているのは如意宝珠と思われるので地蔵菩薩だろう。
屋根には紋章が濃やかに彫られ、下の方には「湯殿山 羽黒山  百番組」、側面には 「四国八十八ケ所」などの文字がきざまれ、出羽三山と四国霊場の巡拝塔であることがわかる。
修験道と仏教との聖地巡拝の記念と、巡拝に行けなかったひとも塔をおがめば巡拝したのとおなじ利益を得られることをねがったものだろう。 

下名栗浅海道 熊野神社(洞雲寺裏山)

熊野神社参道
境内のうえの方(階段うえ右手にみえる。)には御嶽神社も設けられており、境内に数多い石塔は修験にまつわるものが多い。(このブログでは文字塔は省略)
ちなみに、ここの御嶽神社は中藤中郷四郎寺の御嶽神社2代目一心行者の弟子、加藤源之丞(石仏に銘がある)がはじめたといわれている。加藤源之丞さんの御嶽教へのあつい信仰とエネルギーを感じさせてくれる領域。














妙見菩薩(元治元年(1864))と大日如来(文久3(1863))















廿三夜塔(元治元年(1864))















廿三夜塔アップ
















不動明王(文久2(1862))
これだけが線刻。

下名栗浅海道 洞雲寺

地蔵菩薩
(左端:弘化2(1846)、中央:寛政4(1792)、右端は明治年間)
















中央の地蔵菩薩アップ













六地蔵菩薩

六地蔵は参道の両脇に3躰ずつにわかれている。
(上)左端は天保4年造立で、他の3躰がうえとおなじ弘化2年
の六地蔵。
(下)左の3躰が六地蔵(弘化2)、右の2躰は天保4(1833))の
造立。

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