2009年11月10日火曜日

坂石町分 法光寺

法光寺山門
仁王のてまえに六地蔵、山門を入ると左手に阿弥陀如来ほか下にアップしている仏像たちがならんでいる。

山門のてまえを山にむかって500mいくと、奥の院の観音窟石龕にたどりつく。奥の院は石窟が元燈によって建造された北朝時代(1346)のエリアともいえる。それにたいして、町なかの法光寺境内は創建された北朝後期(1386)~石仏たちのつくられた江戸時代のエリアだ。

この参詣道も昭和のはじめ、石灰採掘で消滅の危機にさらされたという。いまでは歩きやすい小径が復元され、雑木林のなかにつうじている。
さらに観音窟のてまえを左に道をとると、宝生の滝に出会う。すぐそばには弘法の爪書きの不動といわれている、磨崖仏がまちかまえている。

観音窟わきの坂をのぼると、頂上ふきんには奇妙なかたちの石が鎮座している。まるで”時の道”をさかのぼってきたかのような感覚におそわれる。
この石とてまえにある滝=水がそもそもの霊性の源ではないだろうか。原始の石と滝=水信仰が南北朝時代に鍾乳洞を舞台として観音信仰へと変遷し、後期北朝~江戸時代の法光寺、そして現代へとつながってきたのではないだろうか。
写真はその”時の道”をさかのぼる順序でアップしてあります。














六地蔵ほか
六地蔵は享保16(1731)造立で、もとは林昌寺にあったもの。右端はすがたも大きさも異なっており、造立年は不詳。















地蔵菩薩
左:享保16(1731) 右:寛政6(1794)















庚申塔
燈明台ではっきりとはみえないが、下部には三猿がきざまれている。





















阿弥陀如来(享保16(1731))






















弘法の爪書き不動
弘法大師手彫の不動とつたえられる磨崖仏。
観音石窟へのとちゅうにある。















宝生の滝
冬ちかい11月はじめなので、一見岩が湿っているていどだが、くぼみを眺めているとたしかに水がきらめき流れのあることに気づかされる。落差18メートルの小さな滝ながらも霊性、ある種の生・性性を感じさせてくれる。

水源

岩殿観音窟の案内板















岩殿観音窟
奥の院である観音石窟は案内板によると、元燈比丘によって鍾乳洞に石窟が彫られ、石の厨子がつくられた(貞和2(1348))。
(行基菩薩の開基といわれているのが事実だとすれば8世紀の創建ということになるが、近畿中心に活動した行基が当地に来たとは考えにくい。高麗の血が混じっていれば可能性がないとはいえないかもしれないが・・・ 行基への尊崇と親愛感―そして権威づけへの欲求がそのような伝説を生んだのだろう。)

元燈がはいるころまでは神道―原始信仰が優勢な領域だったのではないだろうか。
というのも下にアップしたご神体の石の方がまつられている位置から、上位にあったと考えられるから。さらに、弘法の硯水といわれる岩のくぼみも水の霊性のシンボルの変形といえる。
まず石と滝=水があり、それから下って(場所的にも時代的にも)観音石窟、いまの法光寺へと移ったのだろう。その意味で石と滝=水の霊性の支配していた山に仏教が進入してきた。そして神道と仏教とが棲み分けられた、ごなnいまの状態になったと考えるのがふさわしそう。
本尊の十一面観音は昭和8年の造立。左てまえは板碑。よくみると、右奥にも板碑が置かれている。
ちなみに、名栗の尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すとこの洞窟から出てきたという話が伝わっている。(『名栗の民俗』)
















2躰地蔵(寛延2(1749))と馬頭観音
観音窟のわきにならんですえられている。
ひとつの石に道祖神のように2躰が彫られている地蔵はめずらしい。夕陽地蔵とでも名づけたい瀟洒な地蔵。
















ご神体の石
古峯神社の祠のわきにまつられた石。みる角度によっては猿にもみえる。
ここがほぼ頂上だが、すこしうえが明るく開けているのでのぞくと石灰を掘削する現場が大きく口をあけ、ショベルカーがうなっていた。

かつて、ひとは自然を畏れ感謝し、ひざまずいた。そして、霊的な石をまつり、鍾乳洞にその証しを石龕としてきざんだ。が、げんだいのわれわれは自然を根こそぎ利用してきたけっか、環境破壊というペナルティをうけざるを得なくなっているのではないだろうか。かろうじてこの聖域がのこされたことを感謝するべきなのだろうか。―一傍観者のひとりごと。

0 件のコメント:

コメントを投稿

フォロワー