2010年12月26日日曜日
2010年12月25日土曜日
2010年4月21日水曜日
2010年2月25日木曜日
上名栗櫃沢(山王橋きわ)
庚申塔
青面金剛像は猿とみまちがえるんほどかわいらしく小さい。
3猿ではなく2猿だけがほられている。脇侍をしたがえた弥
陀三尊像と見まちがえそうな像だ。造立年代は不明だが、
3猿形式にうつるまえの原初にちかいかたちだろうか。
川にかかる橋は山王橋とよばれるが、かつて山王様・日枝
神社があった。そしてその使いとされる猿が庚申塔にきざま
れることになったのだろうか。庚申信仰とはべつに日枝神社
ゆかりの猿が庚申塔に置かれるようになったいきさつをかた
る重要な塔なのかも・・・
飯能・入間市内にある庚申塔のなかで、2猿なのはわたしの
みるところこの1基だけ。
また主尊はその姿かたちのおだやかさから判断すると地蔵
菩薩にも見えないこともない。
三界万霊塔(等)と廻国塔(元文6(1740))
庚申塔からわずかに下ったところに祀られている。
青面金剛像は猿とみまちがえるんほどかわいらしく小さい。
3猿ではなく2猿だけがほられている。脇侍をしたがえた弥
陀三尊像と見まちがえそうな像だ。造立年代は不明だが、
3猿形式にうつるまえの原初にちかいかたちだろうか。
川にかかる橋は山王橋とよばれるが、かつて山王様・日枝
神社があった。そしてその使いとされる猿が庚申塔にきざま
れることになったのだろうか。庚申信仰とはべつに日枝神社
ゆかりの猿が庚申塔に置かれるようになったいきさつをかた
る重要な塔なのかも・・・
飯能・入間市内にある庚申塔のなかで、2猿なのはわたしの
みるところこの1基だけ。
また主尊はその姿かたちのおだやかさから判断すると地蔵
菩薩にも見えないこともない。
三界万霊塔(等)と廻国塔(元文6(1740))
庚申塔からわずかに下ったところに祀られている。
上名栗森ヶ原 浅見氏宅
木造阿弥陀如来・十一面観音・薬師如来
ひつ沢の庚申塔をたずねて農作業中の方に声をおかけしたとこ
ろ、「うちにも十一面観音があるよ」とおしえられ、石仏ではな
いがせっかくなのでありがたく祠の鍵をあけていただく。十一
面観音立像は江戸前期、阿弥陀如来坐像は江戸中期のもの
としてそれぞれ市の文化財に指定されている。
ひつ沢の庚申塔をたずねて農作業中の方に声をおかけしたとこ
ろ、「うちにも十一面観音があるよ」とおしえられ、石仏ではな
いがせっかくなのでありがたく祠の鍵をあけていただく。十一
面観音立像は江戸前期、阿弥陀如来坐像は江戸中期のもの
としてそれぞれ市の文化財に指定されている。
浅見氏のおなじ墓地内に元文2年と銘の
ある石仏がある。左手に蓮華をもってい
るようにもみえ、それがあたっているなら
聖観音か?
2010年2月23日火曜日
2010年1月26日火曜日
下名栗尾須沢
尾須沢鍾乳洞
これほど大規模の鍾乳洞があれば、岩をご神体とする神社や
修験の聖地やお寺ができていてもよさそうだが、今のところそ
の形跡はなさそう。『名栗の民俗』によると、コウモリ岩と呼ば
れる尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すと、坂石町(吾野)の法光
寺の洞穴から出てきたという伝説が伝わっている。法光寺に
は弘法大師が彫ったといわれる磨崖仏もあり、頂上にはご神
体の石がまつられ、中腹には貞治3(1348)年に建立された観
音石窟もある。同様のものがこちらにもあってもよさそうだが、
聖観音だけがさびしく土に埋もれていたということになる。そし
てこのブログが参考にさせていただいている『名栗の石仏』編
者の塩野さんが昭和50年(1975)にこの聖観音を発見し、掘り
出したのだ。そのことがなかったら、いまこのように聖観音を
拝むことはできなかった。埋もれていることを推測し掘り出さ
れた塩野氏の推理力と執念に感謝かつ敬服。
鍾乳洞わきにたたずむ聖観音(寛文12 (1672))
聖観音アップ
土中から掘り出された観音は名栗最古にもかかわらず、とて
も新しくつい最近彫られたかのようにみずみずしい。願いごと
を聞きとどける「与願印」の右手が大きいのは、その大きな掌
でより多くの衆生を救うためだろう。
聖観音全身像
これほど大規模の鍾乳洞があれば、岩をご神体とする神社や
修験の聖地やお寺ができていてもよさそうだが、今のところそ
の形跡はなさそう。『名栗の民俗』によると、コウモリ岩と呼ば
れる尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すと、坂石町(吾野)の法光
寺の洞穴から出てきたという伝説が伝わっている。法光寺に
は弘法大師が彫ったといわれる磨崖仏もあり、頂上にはご神
体の石がまつられ、中腹には貞治3(1348)年に建立された観
音石窟もある。同様のものがこちらにもあってもよさそうだが、
聖観音だけがさびしく土に埋もれていたということになる。そし
てこのブログが参考にさせていただいている『名栗の石仏』編
者の塩野さんが昭和50年(1975)にこの聖観音を発見し、掘り
出したのだ。そのことがなかったら、いまこのように聖観音を
拝むことはできなかった。埋もれていることを推測し掘り出さ
れた塩野氏の推理力と執念に感謝かつ敬服。
鍾乳洞わきにたたずむ聖観音(寛文12 (1672))
聖観音アップ
土中から掘り出された観音は名栗最古にもかかわらず、とて
も新しくつい最近彫られたかのようにみずみずしい。願いごと
を聞きとどける「与願印」の右手が大きいのは、その大きな掌
でより多くの衆生を救うためだろう。
聖観音全身像
2010年1月21日木曜日
下名栗馬場
巡拝塔(安政4(1857))・勢至菩薩(慶應2(1866))・馬頭観音(安政4)
阿弥陀三尊の脇士としてあらわされることの多い勢至菩薩が単独で祀られている。
この勢至菩薩が造立された慶應2年といえば、翌3年には大政奉還から王政復古へと激動の時代に突き進んでいく。戦争への予兆を感じ、迷いと戦さからすくってくれるこの菩薩を造立したのだろうか。
巡拝塔アップ
彫像は右手に錫杖はもっていないが、左手にもっているのは如意宝珠と思われるので地蔵菩薩だろう。
屋根には紋章が濃やかに彫られ、下の方には「湯殿山 羽黒山 百番組」、側面には 「四国八十八ケ所」などの文字がきざまれ、出羽三山と四国霊場の巡拝塔であることがわかる。
修験道と仏教との聖地巡拝の記念と、巡拝に行けなかったひとも塔をおがめば巡拝したのとおなじ利益を得られることをねがったものだろう。
阿弥陀三尊の脇士としてあらわされることの多い勢至菩薩が単独で祀られている。
この勢至菩薩が造立された慶應2年といえば、翌3年には大政奉還から王政復古へと激動の時代に突き進んでいく。戦争への予兆を感じ、迷いと戦さからすくってくれるこの菩薩を造立したのだろうか。
巡拝塔アップ
彫像は右手に錫杖はもっていないが、左手にもっているのは如意宝珠と思われるので地蔵菩薩だろう。
屋根には紋章が濃やかに彫られ、下の方には「湯殿山 羽黒山 百番組」、側面には 「四国八十八ケ所」などの文字がきざまれ、出羽三山と四国霊場の巡拝塔であることがわかる。
修験道と仏教との聖地巡拝の記念と、巡拝に行けなかったひとも塔をおがめば巡拝したのとおなじ利益を得られることをねがったものだろう。
下名栗浅海道 熊野神社(洞雲寺裏山)
下名栗浅海道 洞雲寺
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