地蔵菩薩(宝暦10?)
旧道に面して庚申塔(文字塔)とともに据えられている。
2009年11月27日金曜日
中藤中郷四郎寺 御嶽神社
紅葉のころの御嶽神社参道
先達のはなしによると、この神社は嶽神霊神と呼ばれる開山者によって木曽御嶽山を信仰する講の霊地として創建された。江戸時代の富士講に似た修験の信仰教団といえる。
あたまに「○○御嶽」と地名がつかないのは、当社だけらしい。それほど木曽御嶽と密接なつながりがあるということだろう。
いっぽう、○○御嶽と地名を頭にかぶせていないのはそれだけ、地域性がうすいともいえる。講連中は地元の中藤上郷よりもひろく散らばっていたし、いまもそのようだ。
地域共同体の神社から個人祈願の信仰組織へと移ってきた、時代の趨勢をしめす一例といえる。比較的あたらしい(江戸末期)の創始だが、他の修験道の講もおなじように組織されてきたのだろう。
また自然崇拝から神道、仏教との習合が、像や信仰のかたち(星まつりなど)にはっきりと残されている。
参道の脇には、「××霊神」「○○霊神」という石碑が数多まつられている。柳田國男のいうように、死の穢れの脱却されない者が霊神だとすれば、これらの石碑は仏教の戒名をあたえられた墓石よりも、現世にちかい色合いをもっているといえそう。
かつては夏冬年2回、木曽御嶽に修行・参詣にでかけていたらしいが、いまは夏だけとのこと。冬至には密教系統の星まつりもおこなわれる。

霊神の石碑群
不動明王(天保10(1839))
御嶽神社が勧進されたのとおなじ江戸末期のものだが、神社が先か、この像が先か、それともどうじか判断のわかれるところ。
(下の写真の)清瀧不動とおなじく、もともと両方の不動尊が信仰されており、そのような霊地をえらんで木曽から勧請したとおもいたい。

清瀧不動明王
石仏ではないが、冬も涸れることのない泉のうえに祀られている。御嶽神社が設けられるよりまえにこの泉が信仰されていたのかもしれない。その霊地に開山者の嶽神霊神がげんざいの神社を創ったとかんがえたらどうだろうか。

摩利支天
陽炎が神格化されたといわれる護身の神だが、本社の木曽御嶽にも摩利支天山があり、それにちなんで祀られたものだろう。
2代目一心霊神
持物はいっけん地蔵に似ているが、装束はことなり、顔の表情も修験者のきびしさに満ちている。
一心行者の弟子が名栗浅海道洞雲寺の裏山に御嶽神社を創始した。

開山嶽神霊神
ときは江戸末期越生で刀鍛冶をいとなんでいたが、人殺しの道具である刀をつくるのを悔いて当地で木曽御嶽の分社をおこしたという。おはなしを伺った先達は5代目で、亡くなった父親の跡をついだ娘にあたるひとだった。
先達のはなしによると、この神社は嶽神霊神と呼ばれる開山者によって木曽御嶽山を信仰する講の霊地として創建された。江戸時代の富士講に似た修験の信仰教団といえる。
あたまに「○○御嶽」と地名がつかないのは、当社だけらしい。それほど木曽御嶽と密接なつながりがあるということだろう。
いっぽう、○○御嶽と地名を頭にかぶせていないのはそれだけ、地域性がうすいともいえる。講連中は地元の中藤上郷よりもひろく散らばっていたし、いまもそのようだ。
地域共同体の神社から個人祈願の信仰組織へと移ってきた、時代の趨勢をしめす一例といえる。比較的あたらしい(江戸末期)の創始だが、他の修験道の講もおなじように組織されてきたのだろう。
また自然崇拝から神道、仏教との習合が、像や信仰のかたち(星まつりなど)にはっきりと残されている。
参道の脇には、「××霊神」「○○霊神」という石碑が数多まつられている。柳田國男のいうように、死の穢れの脱却されない者が霊神だとすれば、これらの石碑は仏教の戒名をあたえられた墓石よりも、現世にちかい色合いをもっているといえそう。
かつては夏冬年2回、木曽御嶽に修行・参詣にでかけていたらしいが、いまは夏だけとのこと。冬至には密教系統の星まつりもおこなわれる。
霊神の石碑群
不動明王(天保10(1839))
御嶽神社が勧進されたのとおなじ江戸末期のものだが、神社が先か、この像が先か、それともどうじか判断のわかれるところ。
(下の写真の)清瀧不動とおなじく、もともと両方の不動尊が信仰されており、そのような霊地をえらんで木曽から勧請したとおもいたい。

清瀧不動明王
石仏ではないが、冬も涸れることのない泉のうえに祀られている。御嶽神社が設けられるよりまえにこの泉が信仰されていたのかもしれない。その霊地に開山者の嶽神霊神がげんざいの神社を創ったとかんがえたらどうだろうか。

摩利支天
陽炎が神格化されたといわれる護身の神だが、本社の木曽御嶽にも摩利支天山があり、それにちなんで祀られたものだろう。
2代目一心霊神
持物はいっけん地蔵に似ているが、装束はことなり、顔の表情も修験者のきびしさに満ちている。
一心行者の弟子が名栗浅海道洞雲寺の裏山に御嶽神社を創始した。
開山嶽神霊神
ときは江戸末期越生で刀鍛冶をいとなんでいたが、人殺しの道具である刀をつくるのを悔いて当地で木曽御嶽の分社をおこしたという。おはなしを伺った先達は5代目で、亡くなった父親の跡をついだ娘にあたるひとだった。
2009年11月26日木曜日
2009年11月24日火曜日
小瀬戸 新福寺
新福寺参道の地蔵菩薩
急坂をのぼると、入口の両脇で地蔵たちが迎えてくれる。
いちばん手前の一段高い台座にすえられているのは左右とも「皇紀2600年」と刻まれている。
皇紀2600年は西暦1940年にあたる。(零式戦闘機もこれにちなんで名づけられた。)ということは、日中戦争(1937)から太平洋戦争(1941)へと時代が押し流されていくなか、これらの地蔵も国威発揚の一翼をになうべく造立されたのだろうか。「皇紀」とは、いまの時点でかんがえれば、きわめて神がかり的で時代錯誤の負の遺産でしかない。
菩薩のなかでも日常の最前線で苦しみをとりのぞいてくれるはずの地蔵菩薩も、そのような銘をきざまれてさぞかし迷惑におもったのではないだろうか。
地蔵菩薩(右:嘉永2(1849) 中央:寛政3(1791) 左端は「皇紀2600年」のもの)
嘉永年間の地蔵はアルカイックな面立ちをしている。

地蔵菩薩
左の小さい方は埴輪のように角がなくなっている。
大きい方は台座に「皇紀2600年」と刻まれている。
急坂をのぼると、入口の両脇で地蔵たちが迎えてくれる。
いちばん手前の一段高い台座にすえられているのは左右とも「皇紀2600年」と刻まれている。
皇紀2600年は西暦1940年にあたる。(零式戦闘機もこれにちなんで名づけられた。)ということは、日中戦争(1937)から太平洋戦争(1941)へと時代が押し流されていくなか、これらの地蔵も国威発揚の一翼をになうべく造立されたのだろうか。「皇紀」とは、いまの時点でかんがえれば、きわめて神がかり的で時代錯誤の負の遺産でしかない。
菩薩のなかでも日常の最前線で苦しみをとりのぞいてくれるはずの地蔵菩薩も、そのような銘をきざまれてさぞかし迷惑におもったのではないだろうか。
地蔵菩薩(右:嘉永2(1849) 中央:寛政3(1791) 左端は「皇紀2600年」のもの)
嘉永年間の地蔵はアルカイックな面立ちをしている。

地蔵菩薩
左の小さい方は埴輪のように角がなくなっている。
大きい方は台座に「皇紀2600年」と刻まれている。
小瀬戸342 新寺(にってら)地蔵尊
新寺地蔵尊と道標
地蔵尊のてまえには道標があり、道標には「右 名栗」とよめるが左は「中郷」のようだがはっきりとは読めず。

新寺地蔵尊
鼻が欠けているところをみると、全国何ヵ所かにある鼻欠け地蔵の由来があるのかも・・・と思っていたが、後日近くのご老人(30年在住)にお聞きしたら、そのような伝承はないとのこと。ただ賽銭どろぼうがいて、どろぼうの鼻がかけたということを聞いたことがあるとのことだった。
他所の鼻欠け地蔵は身代わりになったり、ねがいごとをかなえてやったりする。それにくらべて自身の賽銭をとられた証しとして、鼻が欠けるというのはいかにも打算的。それとも賽銭どろぼうのはなしと鼻が欠けていることとは関係がないのかも・・・
地蔵尊のてまえには道標があり、道標には「右 名栗」とよめるが左は「中郷」のようだがはっきりとは読めず。
新寺地蔵尊
鼻が欠けているところをみると、全国何ヵ所かにある鼻欠け地蔵の由来があるのかも・・・と思っていたが、後日近くのご老人(30年在住)にお聞きしたら、そのような伝承はないとのこと。ただ賽銭どろぼうがいて、どろぼうの鼻がかけたということを聞いたことがあるとのことだった。
他所の鼻欠け地蔵は身代わりになったり、ねがいごとをかなえてやったりする。それにくらべて自身の賽銭をとられた証しとして、鼻が欠けるというのはいかにも打算的。それとも賽銭どろぼうのはなしと鼻が欠けていることとは関係がないのかも・・・
2009年11月22日日曜日
赤沢 金錫寺
地蔵菩薩群(右端:享和2(1802)、右から2番目:天明3(1783)、宝暦10(1760))
左端の頭部の完全なのは明治45年の造立。他はすべて顔が
すげ替えられている。ということは、武州一揆の激動のなかで、
あるいは明治初期の廃仏毀釈の潮流のなかで頭部がすべて
こわされた。
一揆から半世紀を経た明治末に、石仏たちを悲しんだ信者(施
主=服部幸次郎)が復旧し、さらに完全なかたちの地蔵菩薩
をあたらしく据えたのだろう。ちかくの赤沢中屋敷集会所内の
地蔵たちもすべて首がすげ替えられている。
武州一揆のさい、幕府権力の末端組織としての寺・仏教へ
の遺恨がよほどつよく破壊にいたったのだろうか。それとも赤
沢地区には狂信的な神道信奉者たちが多かったのだろうか。
破壊仏のめだつ地域だ。

春のある日
左端の頭部の完全なのは明治45年の造立。他はすべて顔が
すげ替えられている。ということは、武州一揆の激動のなかで、
あるいは明治初期の廃仏毀釈の潮流のなかで頭部がすべて
こわされた。
一揆から半世紀を経た明治末に、石仏たちを悲しんだ信者(施
主=服部幸次郎)が復旧し、さらに完全なかたちの地蔵菩薩
をあたらしく据えたのだろう。ちかくの赤沢中屋敷集会所内の
地蔵たちもすべて首がすげ替えられている。
武州一揆のさい、幕府権力の末端組織としての寺・仏教へ
の遺恨がよほどつよく破壊にいたったのだろうか。それとも赤
沢地区には狂信的な神道信奉者たちが多かったのだろうか。
破壊仏のめだつ地域だ。

春のある日
2009年11月21日土曜日
赤沢169地先 中屋敷集会場
上直竹下分 光全寺
地蔵菩薩(明和4(1767))
光全寺には多くの地蔵菩薩が祀られている。
ここから山越えで原市場に出られるが、徒歩でないと無理だと薪割りをしていた外国の方おしえられ、やむなくもと来た道へと折り返す。

六地蔵と地蔵菩薩
地蔵菩薩(嘉永年間)
六地蔵の右端にすえられた地蔵菩薩は「嘉永」の文字が読み取れる。年は「五」とも読めそうだがはっきりとは読み取れない。他の六地蔵は年号が記されていない。右端の地蔵よりすこし小ぶりだが、石質も彫り方もにているのでほぼ同時期と推察できる。
ひとまわり大きなこの地蔵菩薩は、衣のすそが舞い上がったユニークなかたちをしている。
地蔵菩薩(享保7(1722))
六地蔵のてまえの覆屋に祀られている。
光全寺には多くの地蔵菩薩が祀られている。
ここから山越えで原市場に出られるが、徒歩でないと無理だと薪割りをしていた外国の方おしえられ、やむなくもと来た道へと折り返す。

六地蔵と地蔵菩薩
地蔵菩薩(嘉永年間)
六地蔵の右端にすえられた地蔵菩薩は「嘉永」の文字が読み取れる。年は「五」とも読めそうだがはっきりとは読み取れない。他の六地蔵は年号が記されていない。右端の地蔵よりすこし小ぶりだが、石質も彫り方もにているのでほぼ同時期と推察できる。
ひとまわり大きなこの地蔵菩薩は、衣のすそが舞い上がったユニークなかたちをしている。
地蔵菩薩(享保7(1722))
六地蔵のてまえの覆屋に祀られている。

2009年11月11日水曜日
南川花桐 諏訪の上
妙見菩薩(寛政8(1796))
やっと花桐にたどりついた。ここにいたるまで訪ね歩いた人数をかぞえると、坂元のご婦人から郷土史にくわしい大野氏まで6人の方のお世話になった。川中の岩上にあるということなので、簡単にはみつけられないと予想はしていたが・・・
お訪ねした大野氏には説明のみか案内までしていただき恐縮のきわみ。
案内していただいたところはなんと、高麗川支流に面したそのお宅のすぐ下流の岩だった。高麗川本流ではなくこの支流に鎮座していたのだった。
教えられた方向を透かしてみると、木の間がくれに、いた、いた。舟形の石像がみえるではないか。対岸に張り出した大岩のうえにちょこんと納まっている。岩を回り込んでのぼるルートを教わりなんとか撮影完了。
妙見菩薩は北極星が神格化・仏格化したといわれる。川中に据えられていることから、他所でもみられるように水神としてまつられたものだろう。花桐という美しい地名にふさわしい優雅な菩薩。
市内では初見だ。
高麗川支流をさかのぼっていきながら、なぜか『同時代ゲーム』の”壊す人”が川を遡行して巨岩を爆破し、新天地を開拓する場面をおもいだした。それほど奥深いわけではないが、行き止まりの集落にそそぐ弱々しい光と曲がりくねった川にせり出す岩がそのような幻想をいだかせたのかも。
木から茶色いものがふわりと落ちたとみたのは、じつは野生の猿だった。撮影のあと、小生がわたってきた丸木橋をとおって、まるまるとした猿が数匹、真っ赤な尻をみせながら対岸へ消えていった。市内に隠れ里とも呼びたい、このような別天地があるとは!

馬頭観音(文化元年(1804))
妙見菩薩とはべつに石仏が1躰あると教えられた。集落のある左岸、川にせり出した大岩のうえに据えられている。
頭髪が炎のようで、不動明王かともおもわれるが、三面六臂の不動明王はなさそうなので、馬頭観音と推定。頭部の馬がはっきりみえないのが心残り。顔がふくよかで人間的な表情をしているのがユニーク。ひょっとして施主に似せたのだろうか。ふくぶくしい顔と頭髪の荒々しさとのアンバランスがおもしろい。
側面に「嶋田七兵衛」の銘が彫られている。
案内していただいた大野氏によれば、嶋田氏はいまは更地になっている屋敷跡の主で、集落のお大尽だったが、跡が絶えてしまったとのこと。更地には木も生えていない。片隅には桑を貯蔵するためのコンクリートの構造物がわずかにのこっていた。
やっと花桐にたどりついた。ここにいたるまで訪ね歩いた人数をかぞえると、坂元のご婦人から郷土史にくわしい大野氏まで6人の方のお世話になった。川中の岩上にあるということなので、簡単にはみつけられないと予想はしていたが・・・
お訪ねした大野氏には説明のみか案内までしていただき恐縮のきわみ。
案内していただいたところはなんと、高麗川支流に面したそのお宅のすぐ下流の岩だった。高麗川本流ではなくこの支流に鎮座していたのだった。
教えられた方向を透かしてみると、木の間がくれに、いた、いた。舟形の石像がみえるではないか。対岸に張り出した大岩のうえにちょこんと納まっている。岩を回り込んでのぼるルートを教わりなんとか撮影完了。
妙見菩薩は北極星が神格化・仏格化したといわれる。川中に据えられていることから、他所でもみられるように水神としてまつられたものだろう。花桐という美しい地名にふさわしい優雅な菩薩。
市内では初見だ。
高麗川支流をさかのぼっていきながら、なぜか『同時代ゲーム』の”壊す人”が川を遡行して巨岩を爆破し、新天地を開拓する場面をおもいだした。それほど奥深いわけではないが、行き止まりの集落にそそぐ弱々しい光と曲がりくねった川にせり出す岩がそのような幻想をいだかせたのかも。
木から茶色いものがふわりと落ちたとみたのは、じつは野生の猿だった。撮影のあと、小生がわたってきた丸木橋をとおって、まるまるとした猿が数匹、真っ赤な尻をみせながら対岸へ消えていった。市内に隠れ里とも呼びたい、このような別天地があるとは!

馬頭観音(文化元年(1804))
妙見菩薩とはべつに石仏が1躰あると教えられた。集落のある左岸、川にせり出した大岩のうえに据えられている。
頭髪が炎のようで、不動明王かともおもわれるが、三面六臂の不動明王はなさそうなので、馬頭観音と推定。頭部の馬がはっきりみえないのが心残り。顔がふくよかで人間的な表情をしているのがユニーク。ひょっとして施主に似せたのだろうか。ふくぶくしい顔と頭髪の荒々しさとのアンバランスがおもしろい。
側面に「嶋田七兵衛」の銘が彫られている。
案内していただいた大野氏によれば、嶋田氏はいまは更地になっている屋敷跡の主で、集落のお大尽だったが、跡が絶えてしまったとのこと。更地には木も生えていない。片隅には桑を貯蔵するためのコンクリートの構造物がわずかにのこっていた。
2009年11月10日火曜日
坂石町分 法光寺
法光寺山門
仁王のてまえに六地蔵、山門を入ると左手に阿弥陀如来ほか下にアップしている仏像たちがならんでいる。
山門のてまえを山にむかって500mいくと、奥の院の観音窟石龕にたどりつく。奥の院は石窟が元燈によって建造された北朝時代(1346)のエリアともいえる。それにたいして、町なかの法光寺境内は創建された北朝後期(1386)~石仏たちのつくられた江戸時代のエリアだ。
この参詣道も昭和のはじめ、石灰採掘で消滅の危機にさらされたという。いまでは歩きやすい小径が復元され、雑木林のなかにつうじている。
さらに観音窟のてまえを左に道をとると、宝生の滝に出会う。すぐそばには弘法の爪書きの不動といわれている、磨崖仏がまちかまえている。
観音窟わきの坂をのぼると、頂上ふきんには奇妙なかたちの石が鎮座している。まるで”時の道”をさかのぼってきたかのような感覚におそわれる。
この石とてまえにある滝=水がそもそもの霊性の源ではないだろうか。原始の石と滝=水信仰が南北朝時代に鍾乳洞を舞台として観音信仰へと変遷し、後期北朝~江戸時代の法光寺、そして現代へとつながってきたのではないだろうか。
写真はその”時の道”をさかのぼる順序でアップしてあります。

六地蔵ほか
六地蔵は享保16(1731)造立で、もとは林昌寺にあったもの。右端はすがたも大きさも異なっており、造立年は不詳。

地蔵菩薩
左:享保16(1731) 右:寛政6(1794)

庚申塔
燈明台ではっきりとはみえないが、下部には三猿がきざまれている。

阿弥陀如来(享保16(1731))

弘法の爪書き不動
弘法大師手彫の不動とつたえられる磨崖仏。
観音石窟へのとちゅうにある。

宝生の滝
冬ちかい11月はじめなので、一見岩が湿っているていどだが、くぼみを眺めているとたしかに水がきらめき流れのあることに気づかされる。落差18メートルの小さな滝ながらも霊性、ある種の生・性性を感じさせてくれる。
岩殿観音窟
奥の院である観音石窟は案内板によると、元燈比丘によって鍾乳洞に石窟が彫られ、石の厨子がつくられた(貞和2(1348))。
(行基菩薩の開基といわれているのが事実だとすれば8世紀の創建ということになるが、近畿中心に活動した行基が当地に来たとは考えにくい。高麗の血が混じっていれば可能性がないとはいえないかもしれないが・・・ 行基への尊崇と親愛感―そして権威づけへの欲求がそのような伝説を生んだのだろう。)
元燈がはいるころまでは神道―原始信仰が優勢な領域だったのではないだろうか。
というのも下にアップしたご神体の石の方がまつられている位置から、上位にあったと考えられるから。さらに、弘法の硯水といわれる岩のくぼみも水の霊性のシンボルの変形といえる。
まず石と滝=水があり、それから下って(場所的にも時代的にも)観音石窟、いまの法光寺へと移ったのだろう。その意味で石と滝=水の霊性の支配していた山に仏教が進入してきた。そして神道と仏教とが棲み分けられた、ごなnいまの状態になったと考えるのがふさわしそう。
本尊の十一面観音は昭和8年の造立。左てまえは板碑。よくみると、右奥にも板碑が置かれている。
ちなみに、名栗の尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すとこの洞窟から出てきたという話が伝わっている。(『名栗の民俗』)

2躰地蔵(寛延2(1749))と馬頭観音
観音窟のわきにならんですえられている。
ひとつの石に道祖神のように2躰が彫られている地蔵はめずらしい。夕陽地蔵とでも名づけたい瀟洒な地蔵。

ご神体の石
古峯神社の祠のわきにまつられた石。みる角度によっては猿にもみえる。
ここがほぼ頂上だが、すこしうえが明るく開けているのでのぞくと石灰を掘削する現場が大きく口をあけ、ショベルカーがうなっていた。
かつて、ひとは自然を畏れ感謝し、ひざまずいた。そして、霊的な石をまつり、鍾乳洞にその証しを石龕としてきざんだ。が、げんだいのわれわれは自然を根こそぎ利用してきたけっか、環境破壊というペナルティをうけざるを得なくなっているのではないだろうか。かろうじてこの聖域がのこされたことを感謝するべきなのだろうか。―一傍観者のひとりごと。
仁王のてまえに六地蔵、山門を入ると左手に阿弥陀如来ほか下にアップしている仏像たちがならんでいる。
山門のてまえを山にむかって500mいくと、奥の院の観音窟石龕にたどりつく。奥の院は石窟が元燈によって建造された北朝時代(1346)のエリアともいえる。それにたいして、町なかの法光寺境内は創建された北朝後期(1386)~石仏たちのつくられた江戸時代のエリアだ。
この参詣道も昭和のはじめ、石灰採掘で消滅の危機にさらされたという。いまでは歩きやすい小径が復元され、雑木林のなかにつうじている。
さらに観音窟のてまえを左に道をとると、宝生の滝に出会う。すぐそばには弘法の爪書きの不動といわれている、磨崖仏がまちかまえている。
観音窟わきの坂をのぼると、頂上ふきんには奇妙なかたちの石が鎮座している。まるで”時の道”をさかのぼってきたかのような感覚におそわれる。
この石とてまえにある滝=水がそもそもの霊性の源ではないだろうか。原始の石と滝=水信仰が南北朝時代に鍾乳洞を舞台として観音信仰へと変遷し、後期北朝~江戸時代の法光寺、そして現代へとつながってきたのではないだろうか。
写真はその”時の道”をさかのぼる順序でアップしてあります。

六地蔵ほか
六地蔵は享保16(1731)造立で、もとは林昌寺にあったもの。右端はすがたも大きさも異なっており、造立年は不詳。

地蔵菩薩
左:享保16(1731) 右:寛政6(1794)

庚申塔
燈明台ではっきりとはみえないが、下部には三猿がきざまれている。

阿弥陀如来(享保16(1731))

弘法の爪書き不動
弘法大師手彫の不動とつたえられる磨崖仏。
観音石窟へのとちゅうにある。

宝生の滝
冬ちかい11月はじめなので、一見岩が湿っているていどだが、くぼみを眺めているとたしかに水がきらめき流れのあることに気づかされる。落差18メートルの小さな滝ながらも霊性、ある種の生・性性を感じさせてくれる。
水源
岩殿観音窟の案内板
岩殿観音窟
奥の院である観音石窟は案内板によると、元燈比丘によって鍾乳洞に石窟が彫られ、石の厨子がつくられた(貞和2(1348))。
(行基菩薩の開基といわれているのが事実だとすれば8世紀の創建ということになるが、近畿中心に活動した行基が当地に来たとは考えにくい。高麗の血が混じっていれば可能性がないとはいえないかもしれないが・・・ 行基への尊崇と親愛感―そして権威づけへの欲求がそのような伝説を生んだのだろう。)
元燈がはいるころまでは神道―原始信仰が優勢な領域だったのではないだろうか。
というのも下にアップしたご神体の石の方がまつられている位置から、上位にあったと考えられるから。さらに、弘法の硯水といわれる岩のくぼみも水の霊性のシンボルの変形といえる。
まず石と滝=水があり、それから下って(場所的にも時代的にも)観音石窟、いまの法光寺へと移ったのだろう。その意味で石と滝=水の霊性の支配していた山に仏教が進入してきた。そして神道と仏教とが棲み分けられた、ごなnいまの状態になったと考えるのがふさわしそう。
本尊の十一面観音は昭和8年の造立。左てまえは板碑。よくみると、右奥にも板碑が置かれている。
ちなみに、名栗の尾須沢鍾乳洞にニワトリを放すとこの洞窟から出てきたという話が伝わっている。(『名栗の民俗』)

2躰地蔵(寛延2(1749))と馬頭観音
観音窟のわきにならんですえられている。
ひとつの石に道祖神のように2躰が彫られている地蔵はめずらしい。夕陽地蔵とでも名づけたい瀟洒な地蔵。

ご神体の石
古峯神社の祠のわきにまつられた石。みる角度によっては猿にもみえる。
ここがほぼ頂上だが、すこしうえが明るく開けているのでのぞくと石灰を掘削する現場が大きく口をあけ、ショベルカーがうなっていた。
かつて、ひとは自然を畏れ感謝し、ひざまずいた。そして、霊的な石をまつり、鍾乳洞にその証しを石龕としてきざんだ。が、げんだいのわれわれは自然を根こそぎ利用してきたけっか、環境破壊というペナルティをうけざるを得なくなっているのではないだろうか。かろうじてこの聖域がのこされたことを感謝するべきなのだろうか。―一傍観者のひとりごと。

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