2009年11月27日金曜日

中藤中郷四郎寺 御嶽神社

紅葉のころの御嶽神社参道
先達のはなしによると、この神社は嶽神霊神と呼ばれる開山者によって木曽御嶽山を信仰する講の霊地として創建された。江戸時代の富士講に似た修験の信仰教団といえる。
あたまに「○○御嶽」と地名がつかないのは、当社だけらしい。それほど木曽御嶽と密接なつながりがあるということだろう。
いっぽう、○○御嶽と地名を頭にかぶせていないのはそれだけ、地域性がうすいともいえる。講連中は地元の中藤上郷よりもひろく散らばっていたし、いまもそのようだ。
地域共同体の神社から個人祈願の信仰組織へと移ってきた、時代の趨勢をしめす一例といえる。比較的あたらしい(江戸末期)の創始だが、他の修験道の講もおなじように組織されてきたのだろう。
また自然崇拝から神道、仏教との習合が、像や信仰のかたち(星まつりなど)にはっきりと残されている。
参道の脇には、「××霊神」「○○霊神」という石碑が数多まつられている。柳田國男のいうように、死の穢れの脱却されない者が霊神だとすれば、これらの石碑は仏教の戒名をあたえられた墓石よりも、現世にちかい色合いをもっているといえそう。
かつては夏冬年2回、木曽御嶽に修行・参詣にでかけていたらしいが、いまは夏だけとのこと。冬至には密教系統の星まつりもおこなわれる。





















霊神の石碑群















不動明王(天保10(1839))
御嶽神社が勧進されたのとおなじ江戸末期のものだが、神社が先か、この像が先か、それともどうじか判断のわかれるところ。
(下の写真の)清瀧不動とおなじく、もともと両方の不動尊が信仰されており、そのような霊地をえらんで木曽から勧請したとおもいたい。





















清瀧不動明王
石仏ではないが、冬も涸れることのない泉のうえに祀られている。御嶽神社が設けられるよりまえにこの泉が信仰されていたのかもしれない。その霊地に開山者の嶽神霊神がげんざいの神社を創ったとかんがえたらどうだろうか。





















摩利支天
陽炎が神格化されたといわれる護身の神だが、本社の木曽御嶽にも摩利支天山があり、それにちなんで祀られたものだろう。





















2代目一心霊神
持物はいっけん地蔵に似ているが、装束はことなり、顔の表情も修験者のきびしさに満ちている。
一心行者の弟子が名栗浅海道洞雲寺の裏山に御嶽神社を創始した。






















開山嶽神霊神
ときは江戸末期越生で刀鍛冶をいとなんでいたが、人殺しの道具である刀をつくるのを悔いて当地で木曽御嶽の分社をおこしたという。おはなしを伺った先達は5代目で、亡くなった父親の跡をついだ娘にあたるひとだった。

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